昭和42年05月25日 夜の御理解
今日はある方が久し振りに、お参りして来て、そしてその願い事というのが、最近ご無礼ばかり致しておりましてからというてお願いされる事が、最近その方、養子を迎えられたんです。姉兄が幾人もおられるのですけれども、お姉さん達は縁に疲れて、一番下の妹さんが家をとった。勿体ない様な養子を迎えた訳で御座いますけど。その家屋敷が何かの都合でその姉さんの子供さんの名義になっておる。
そこでまあ参って来られた方がお届けされるのに、主人も大変仕事に熱心でそこの家の為にいよいよ働いてくれておりますけれども、肝心のその家が私共の名前になっておりませんから、その事を姉妹達に話したところが、「はあそげな事およたれまわって、あんたが困る事はせんから、まだ先の方で名義の変更はすればよか」とこういう。その事に非常に残念がられて、私もその事を具体的に聞かせて貰よったら。
なんちゅうはがいい事かね。と信心がない者の考え方というのは、本当にそれこそ願ってもない養子さんに来て貰ってしかも、よう家位の者の所に来て貰ったと、云う様な実感がする様なお家にそれこそ養子に来て貰ったのだから、むしろ姉さん達があぁもしてやろ、こうもしてやろうと言わにゃおられん位なのに「およたれまわってから。まだよか」と言う様な雰囲気で、残念だとこう言うわけです。
それで明日兄弟の所を回って了解を得たいと思うけれども、とても承知してくれまい、この前からのどうも私達が、この頃から旅行しておった時に、兄弟達が集まってその話をしておる様で御座います。と言う様なお届けがあったんで御座います。そりゃ実際聞きますとね、本当にはがゆい事だと思う様な感じなんです。しかもそれに親までおられるんですね、年寄りの。
本当にもう財産もない所に、まあ、どっちかちゆうなら親の居る所に、本当に何の取り柄もない様な所に養子に来て貰って、本当に家を建てて貰ったのだから、本当に兄弟達がよってその家の為に力を入れてくれるとか、ようしてくれるとかでなくて、反対の事なんです。自分も主人に対しても済まん。主人の里に対しても済まんからとこう言うておられる。本当にはがゆい事。どうして分からん人達じゃろうかと言うと事。
今日はですねそういう感じのお取り次ぎを、次々としておられたのですよ。聞きながらですね。どうしたはがいい事ねと。云う様なそのお取り次ぎで御座いました。私自身もそれを最近感じるのですけれども、本当に目に余る様な事がある。本当にはがゆい思いをする事がある。からと言うてそれをですね。そのはがゆい思いをするから、又は目に余る様な事があるから、折角これだけの信心が出来よって。
後のたった是位の事で実意を欠くばっかりにいうなら、私はがゆい思いをする。この人が実意丁寧な信心を、しよればしよるほど思うんですよね。それが精進ちゆうか、ちょっと努力すれば出来ん事は無い事なんです。いうなら、痒いかといや、痒いてもくれるのだけれども、ほんな肝心な所は掻かずに横ば掻きよる様なもんですから。却ってはがいいと言う事になって来る様なもんです。
信心させて頂くならもうその人なりで良いですから、実意丁寧に、私はそこの所をしていかなければならんと思うんですけれどもね。ですからお互いの一日の中にですよ。そう言う事が御座いますよね。家族の中に夫婦の中に親子の中にも、又は親戚関係の中にも様々な人間関係の上にも、本当に分からん奴じゃあるま何とはがゆい事であろうかと。目に余るけれどもと言う様な事が御座いますけれども。
そういう様な場合にですそういう問題に「はがゆいことだな」と思うたり腹を立てたり、言うたりしておったんでは信心ではないです。間違いなしにそうですね。それはもうまあそういう例は何時もの事で御座いますが一番私感じた事はですね、もう大洪水の時ですから10年にもなりますかね。もう椛目の御広前の畳が全部腐ったんですよね。ですから長い道側の方へずっとガラス窓の下の方にこうやって畳がかけてある。
立て掛けてある訳です。それが夏の事で御座いますからですね。もう匂うて来るんですよ腐れて。本当にはがいい事じゃ。誰かどうか、本当にこれだけ沢山の人が参って来られておるのに、気が付かんのだろうかとはがゆい思いをしておる。そういう間はですね、誰も片付けやしませんでしたね。私その事を本当気かつかせて貰った。はあ自分の周囲にこういう匂う様な汚いものがあるんだな。
まあ是が取り払われて来た時が、自分がおかげ頂いた時だと言う風に思わせて貰うてです。この事に精進させて貰ったその事に焦点を置いた。例えば今日私が申しました様にはがゆいと思うけれどもはがゆいと言う事は、いっぺん棚の上に上げておいて自分自身が神様に、その時申しました「ほんな事ね聞きよりゃ先生でも本当にもやもやするごたる話だけれども、こりゃひとつこの問題はちょっと棚に上げとかにゃいかん。
この問題は直視したらいけんよ。そして「今の自分の信心というもを眺めて見て、ほんに神様にいい思いをさせよるじゃろうと、言う様な事に気付かせて頂いてそこからはがいい思いをさせておろうと言う所の信心がなされていったならね、おかげ頂くよ」と言うて。今日は次々と同じ様な事のお届けさせて頂いてお届けさせて頂いて事を聞いて貰ったんですけれども、そしたらその例えて話た畳みですけれども。
私がそう言う事を昼思うたら夕方です。ある人が通り掛ってですね「お宅のこの腐れた畳みば貰えんでしょうか」ち。貰われんでしょうかち金ば付けてっちゃあげたい所に「肥料にしたいから良かったら下さい」ち「どうぞもろち下さい」と言う事なんです。まあ新い者のごとして持って帰られました。ですから本当にお前だんばっかりはどうして気が付かんか、気が付いとろうばってんどうしてそげな横着な事か。
これだけ信者が沢山おってから、あんただん気がつかんのと言うておったんでは、駄目ですねそりゃ言えば済むかもしれません。けれどもそれでは言うなら自分自身の向上には一つもならないでしょう。信心とは自分自身の心の成長信心の向上であるのですから、そういう目に余る様な事はがゆい思いをする様な事があったらです。どうしてと言う事はない。まあなんと本当なんち言いよるじゃろかと目に余る様だという時にです。
そう云う様な邪魔な事がです私の心の中にある事をです。悟らないかんまあなんちゅうはがいい事ね。という時に本当に神様にはがゆい思いをさせとろうという気になってです。ここんところが神様がはがゆい思いをなさるじゃろうと、言う所を本気で改まらせて貰精進させて頂き研かせて貰う所に、皆んなもそこに気が付かせて貰いわゆる自他共に助かっていけれる、同時にその事を通して私自身が高められて行くんです。
神様の願はそこ辺にあるのです。私は今日はそのもう2、3件続いてそんなお取り次ぎをさせて頂いたんですけれどもどんなに考えてもはがゆい事だという、ま是が人間関係の事ですけれども、まあ名を持ってお話し出来ないのが残念ですけれども。本当にそうなんですよ所がよくよくその人の信心を検討して見るとです。こりゃあんたの信心をもういっぺんここん所をひとつ違うそういう人達をね、使いよんなさるだけよ。
あんた達が本当に、最近の信心を、思う時に、神様にそういうはがゆい思いをさせておる事を、私でも気が付いとるのであるから、あんただんがそこのところに気が付かせて頂いて、おかげを頂かせて貰ったら、それこそあっという間にです。嘘の様に例えばおかげ頂くだろう。相手の人を使うて、いろんな人を使うてはがゆい思いをさせござる、目に余る思いをさせ御座る。
それを本当にはがゆい事だと言うて、こちらもいきりたってそれに対して対処すればです。その事は、乗り切られ、そのことはまあ、出来るに致しましても自分自身の向上も、神様のお喜び頂ける様な信心も出来ません。本当にというて、言うちゃならん。まああきらめます。もういくら言うたっちゃ聞かんもんですから、もうあきらめました。是は仏教的諦観です。あきらめ。
なるほど諦めると言う事は、悪い事じゃないですよね。その事が気にならん様になる。どんなに言う事聞かん息子がおっても、言うなら自分の思い通りにいかない事があっても、もうそれを諦めましたというのであるから。けどもそれではお道の信心振りにならんのです。それを諦めるのではない。いらいらするのじゃない。もやもやするのじゃない。その事を自分の心の上に私は持っていかなければならない。
そこにあきらめ観ではない。何という腹の立つ。何というはがゆい思いをする事であろうか。と云う様な問題のおかげで、自分が向上する事が出来よる時にはです。言わば相手もおかげを受けておる。そこに、お道の信心の生き生きとした粋姿というかね、生きた信心の素晴らしさというかね。そういうものを感じます。だから私共も生き生きとしていわゆる信心の成長、心の成長が頂けるわけで御座いますね。
どうぞ。